う02 海賊船ヴァイキング・シップ>>>ヴュルテンベルグ

海賊船ヴァイキング・シップ巨大な・409,北方海賊風ヴァイキングふうの兜 464
ヴァルプギリス・の森林399,魔女集会ヴァルプリギス(中世独逸ゲルマンの伝説) 575,・魔宴 618→ヘルツの山
ヴァンス273→ファイロ・ワ゛ンス
ヴァンダイン273
焦褐色ヴァンダイクブラウン336
ヴィクトリア朝205,402
ヴェニトシン321→ヒヨスの毛茸 321,・向気 321
ヴェネチヤ472,・共和国409
ヴェルレーヌ250
ヴォージン神の妻428→女神フリジア
ヴォーバンの攻城法200
ヴォルテール271
荒野ヴュステ 491,600,(ルビなし)355,492
ヴュルテンベルグ369

海賊船ヴァイキング・シップ

巨大な・409,北方海賊風ヴァイキングふうの兜 464
▼巨大な海賊船ヴァイキング・シップの横腹に、時計や七曜円を附けたもので、刻字文に依ると、マーチャント・アドヴェンチュアラーズ会社からウイリアム・シシル卿(エリザベス朝に入ってから、ハンザ承認に弾圧を加えた政治家)に贈ったものであった。 409p

■vaiking【SSD】
■8世紀末-11世紀にヨーロッパを襲ったスカンジナビア人の海賊。
■当時スカンジナビア人は、散居定住し、単婚の自由人家族に若干の奴隷を加えた農場世帯を営んだ。デンマークを除けば主穀生産は不十分で、牧畜、漁業を行い、必要な物を入手するために、船によって交易をした。交易先で機会が許せば略奪をし、またその帰途、水と食料を手ごろなところで実力で入手したから、8世紀末以降、ヨーロッパ各地へバイキングが進出する、いわゆるバイキング時代以前から、バイキング的生活は北欧やバルト海地域で行われていたのである。【大百科】



Merchant Adventurers社で用いられたブロンズ製の印
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ヴァルプギリス

・の森林 399, 魔女集会ヴァルプリギス (中世独逸ゲルマンの伝説)575,ヴァルプリギス魔宴 618→ヘルツの山(妖魔共が、所謂ヴァルプリギス魔宴を行うと云う山)
▼それは取りも直さず、Sechstempel(六つの宮)と響くのを懼れたからです。その伝説詩の後半に現われて、『神の砦』(現在のメッツ附近)の領主の魔法でヴァルプギリスの森林中に出現すると云う――その六つ目の神殿に入ると、入った人間の姿は再び見られないと云うのですからね。399p
▼それこそ、中世独逸の伝説――「魔女集会」*1の再現ではないだろうか。幾つかの積石と窓を隔てて、たしか、この館の何処かに瀑布が落ちているのだ。575p

■Walpurgis-nacht 4月30日より5月1日にかけての夜、ハルツのブロッケン山に魔女會して歓楽を盡くすとの傳説あり 【SSDD】
★ヴァルプギリスは存疑不詳だが、「リ」と「ギ」が入れ替わっている可能性が高い。ヘルツはハルツHarzの読み違い。

「ファウスト第1部」より。メフィストにつれられてハルツ山中の魔女の夜宴を見に来たところ。
A.V.Kreling "Walpurgis night frem Goethe's Faust" (1875)
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ヴァンス

273→ファイロ・ワ゛ンス
■Philo Vance ヴァン・ダイン作「僧正殺人事件」「グリーン家殺人事件」に登場する名探偵。

映画「カナリア殺人事件」でファイロ・ヴァンスを演じるWilliam Powell(1929)
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ヴァンダイン

273→「僧正殺人事件」「グリーン家殺人事件」
▼そうだ支倉君、君にこの事件の覚書を作って貰いたいのだが。大体グリーン殺人事件がそうじゃないか。終り頃になってヴァンスが覚書を作ると、さしもの難事件が、それと同時に奇蹟的な解決を遂げてしまっている。然し、あれは決して、作者の窮策じゃない。ヴァンダインは、如何に因数を決定する事が、切実な問題であるか教えているんだ。273p

■S. S. Van Dine(1888-1939)米国の推理作家・美術評論家。
本名Willard Huntington Wright。アメリカ・ヴァージニア州に生まれ、ハーバード大学卒業後、美術評論家として雑誌や新聞に寄稿。「ベンスン殺人事件」を筆頭に探偵ファイロ・ヴァンスシリーズ12作を執筆。

弟Stanton MacDonald-Wrightが描いたヴァン・ダインの肖像画(1913-14)
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焦褐色ヴァンダイクブラウン

336
▼なお床に、チュィルレー式の組字をつけた書室家具が置かれてある所と云い、また全体の基調色として、乳白大理石と焦褐色の対比を択んだ所と云い、その総てが、到底日本に於ては片影すら望む事の出来ない、十八世紀維納風の書室造りだったのである。336p

■Vandyke Brown 顔料名。ブラウンオーカーを灼いたものが優れ、他に酸化鉄、有機物のものなどあり。【西洋美術辞典】
■フランドル派の画家アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck)が愛用したとされる濃茶褐色
。 豆炭、褐炭に近い土性物質から作る褐色の有機天然土性顔料。主成分は有機物質60%以上、少量の鉄、アルミナ、シリカ。
色味は暖色調の赤褐色を呈している。光りに弱く、タール・ビチュームの性質があるため、退色性がある。油と混ぜると透明になる。木材の着色として使用される。薬品に弱い。絵画でもグラシー用として使われていたが、18世紀前半を期に天然の物は廃れていった。今日では酸化鉄系配合で色味を似せて作られている。

ヴァンダイクブラウン印画法による写真
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ヴィクトリア朝

205,402
▼最近現われた探偵小説家に、小城魚太郎という変り種がいるんだが、その人の近著に『近世迷宮事件考察』と云うのがあって、その中で有名なキューダビイ壊崩録を論じている。ヴィクトリア朝末期に栄えたキューダビイの家も、恰度降矢木の三事件と同じ形で絶滅されてしまったのだ。205p

■Victorian age 【SSD】
★一九世紀の半ばから二〇世紀の初頭にかけて、世界に先駆けて産業革命をなしとげ諸産業の工業化に成功した英国はヴィクトリア女王の統治下、最高の繁栄を誇った。それはルイス・キャロルの生活態度に現れたようなお堅いイメージの社会生活と、シャーロック・ホームズや切り裂きジャックに代表される暗黒面が表裏一体となった奇妙な時代でもあった。 ここで取り上げたエピソードは、とても二〇世紀初頭のものとは思えないのだが。

19歳のヴィクトリア女王。"Queen Victoria" by Sir George Hayter (1860)
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ヴェニトシン

321→ヒヨス,・向気 321,ヒヨスの毛茸 321
▼歌唱詩人オスワルドは、ヴェニトシン(ヒヨスの毛茸ならんと云わる)を入れたる酒を飲むと見る間に、抱琴を抱ける身体波の如くに揺ぎ始め、やがて、妃ゲルトルーデの膝に倒る。リュデスハイムは、予てカルパッス島(クリート島の北方)の妖術師レベドスよりして、ヴェニトシン向気の事を聴きいたれば、直ちに頭を打ち落し、骸と共に焚き捨てたり――と。321p

■菲沃斯ヒヨス 歐米諸國の熱帶地方の原産にして本邦にも亦培植する品種なり。莖高さ三尺以上に達し葉は長卵形にして縁邊に缼刻を有し基部は莖を抱き莖葉共に毛茸を有す。花冠は黄色にして紫色の網状脈を有する無梗花を着生す。【大植物圖鑑 村越三千男編著並描畫 1925年,大植物圖鑑刊行會刊行】
こちらに同書を項目別に掲載したサイトがあります。

■菲沃斯(学名 Hyoscyamus の転)ナス科の一年草。【広辞苑】
■菲沃斯越幾斯日ヨスエキス ヒヨスの葉から製した粘った液。鎮痛・鎮痙作用のあるアルカロイド、ヒヨスチアミンおよび少量のスコポラミンを含み気管支炎などに用いる。【広辞苑】

■アポリナリス〈ヒヨス〉ある人々がアポリナリスと、われわれローマ人がアルテルクムと、しかしギリシャ人がヒュオスキュアモス〈ヒヨス〉と呼ぶ植物もヘラクレスが発見したものとされている。(略)しかしいずれの種類も精神錯乱と眩暈を起こす。また根も用いられるが、わたしの考えでは、その薬剤はどんな形ででも危険な薬だ。 実際その葉を四枚以上内服すると脳が冒されるということはよく知られている。【プリニウスの博物誌Uvol.25-17】

■チョウセンアサガオ・ムラサキケマンの別称。【広辞苑】【毒薬 42p】
■D. stramoniumL.(英名 thorn apple,Jimson weed,stramonium)【大百科】
■テウセンアサガホ 薬名、曼陀羅華、顛茄テンキャ、佛花、悪客、耆婆草、酔腺桃、悶陀羅華、天茄弥陀花等と称す。茄科の植物で古来から沢山な方面に用いられている。魔術師又は、呪詛に巫女等が魔薬として盛んに用いられた薬物の一種であることは、既に前述の如くである。尚これを服用すれば種々な幻想を生ずるので宗教的な花として早くから用いられていたのである。ダリーンインデマンは、この曼陀羅華の一種ダヂューラ、サングユネアの種子を用いてよく神に通ずると信じていた。尚、ペルーの僧も同様この植物に依って、その宗教的法悦を味っていたと云うことである。特に東洋印度に於て、これが使用は盛んであったことは、この植物を曼陀羅華と称するに依っても知ることが出来る。この曼陀羅華の有効成分は、ヒヨスチアミンHyoscyaminである。往事は、是等の特殊の作用を現す有毒植物が、神秘な宗教と結び附いている生殖行為の諸事に用いられたと云うことは事実であろう。【『東西媚薬考』1928 川端男勇・米田祐太郎著 文久社刊】

★ギリシャではVentosinという【『悪魔学大全U』163p学研M文庫刊。原著は『降靈魔術』1931春陽堂刊】
★酒井潔の「悪魔学大全U」によると(「沙翁劇に現われた魔薬毒薬の研究」314p)父王を殺した毒はヒヨスであったという。また八坂書房刊「シェイクスピア薬品考」藤本豊吉著 にも同様の考証がある。 【三たび魔神の呪咀に萎れウイズ・ヒケイツ・ 361】の項参照。
★ヴェニトシン向気 「向気」という言葉だが今風でいえば向精神薬というような意味合いなのだろうか。

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ヴェネチヤ

472, 共和国409
▼天蓋を支えている四本の柱の上には、松毬形をした頂花が冠彫になっていて、その下から全部にかけては、物凄い程克明な刀の跡を見せた、十五世紀ヴェネチアの三十櫓楼船が浮彫になっていた。472p
■Venezia,Venice イタリア北東部、ヴェネツィア湾に臨む港湾都市。商工業が盛んで、中世・ルネッサンスを通じてヴェネツィア共和国として繁栄した。ローマ、フィレンツェと並ぶ個性的な文化をもつ。

ヴェネツィアの代表的風景画家カナレットの「ブチントーロの帰還」Antonio Canaletto "Il ritorno del Bucintoro nel Molo il giorno dell'Ascensione" (1730)
右に見える赤い屋根の大きな船がドゥージェの御座船"ブチェントーロ"


カルパッチオ 「聖ジョルジョの凱旋」 Vittore Carpaccio "Trionfo di San Giorgio" (1502-7)
聖ジョージが退治した龍を引き連れてヴェネツィア市民にお目見えする。犬のようにつながれたドラゴンの情けなさがユーモラス。
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ヴェルレーヌ

250
▼じいっと耳を澄ましていると、何だか茶立虫のような、美しい鑿の音が聞えて来るようじゃないか。ときに、こういうヴェルレーヌの詩が… 251p
■Verlaine,Paul Marie (1844-1896) フランスの詩人。象徴派の代表者。詩集 「華やかな饗宴」「ことばなき恋歌」「叡知」「秋の歌」(上田敏訳)など。【広辞苑】

★永井荷風の名訳詩集「珊瑚集」所載のヴェルレーヌ(荷風の表記はヴェルレヱン)に「返らぬむかし」(原題"Never More")という作品があります。以下の一節はこの本文に対応するように思われます。

打顫うちふるふ鈴の音ごと爽さはやかに響は深く優しき聲よ。
この聲に答へしは心怯こころおくれし微笑ほほゑみにて、
われ眞心の限り白き君が手に吻くちづけぬ。


Vance Thompson Mitchell "A Potrait of Verlaine by Casals"より。
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ヴォージン神の妻

428→女神フリジア(原註 善悪二様の化身のあるヴォージン神の妻)
▼つまり、水精と水魔との間に一致があれば、女神フリジア(即ちニケーア或はニックスと一体で善悪二様の化身のあるヴォージン神の妻)の化身と云われる白夫人伝説の中に、異様な二重人格的意義を発見できはしまいかと考えたからである。428p

■Woden【SSD】Odin【WL】Wodan【SSDD】Odin ou Wotan【PL】
■ウオウドン 古代の神々【FL】
■Frigg,Frigga【SSD】フリイ Fri(Frija)【民俗学の話68p】

白夫人ホワイトレディー伝説 428→女神フリジア
■ホウエンツォルレルンの場合のやうに、白衣の女は死の徴であります。といふのは女~フリイは死の女~で、使者の魂は皆この~の許に行くのであります。【民俗学の話68p】


★二つの画像は豊穣の女神としてのフリッガ、死の女神としてのフレイヤ、車を引くのは二匹の猫。右の裸像は恋愛の女神としてのフレイヤ。
愛と死の二面性を持っているのはフレイヤの方。フレイヤの夫はオードでオーディンではないはずだが、この二人の女神は時代が下るに従って混同されるようになった。実は、下の画像の中央、死の女神としてのフレイヤは出典の書籍ではフリッガとなっている。そういうわけで虫太郎の勘違いとはいえないと思う。さらに白夫人伝説については、アンクウの項で紹介したベアリング・グールドの「民俗学の話」がやっぱりネタ元のようだ。それについてのロマンチックなエピソードがその本にあるので長くなるが紹介したい。

★金曜日フライデイと称するのは、女神フリイ(或いはフリイヤ)から名付けられたものであります。北欧の宰神オウヂン(アングロ・サクソンではウオドン)の妻であり、大地女神として農業の神でもあります。子供たちに引っ張らせた鋤を手に持っている姿です。それは幼くして死んだ子供の魂を蒐めていることを現してもいるのです。ある程度まで愛の神としても考えられて居りまして、この点では希臘のヴイナスと同様であります。(略) 女神フリイの信仰が後には「白衣の女」となって現れて来ることは間違いありませぬ。(略)トレンチャアドの白衣の女は、鋤の傍らに坐っていることを契機として、アングロ・サクソン系の女神フリイと深い関係があるといえばそれでよかったのですが。

此処から北方に当たる、やはり私の教区の中に、深く且つ暗い谷がありまして、細い渓流が中を流れております。ブラットソン・クロヴェリに到る路みちは、此の谷に沿うて居るのです。曽ってはその傍らにに洞穴がありましたが、今は埋まってみることも出来ませぬ。白衣の女が現れるという噂の立ったのは、この渓流の滸ほとりなのであります。銀の櫛で髪を梳きながら、掬すくって掛ける水は、真珠のような雫となって滴っていたという、例の普通に行われる伝説であります。この話に見える櫛と水の雫とは、女が女神フリイそのものであることを、明らかに語っているのであります。【民俗学の話86〜90p】
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ヴォーバンの攻城法

200
■Vauban,Sebastian Le Prestre,Marqui de (1633-1707)
田舎の貧乏貴族に生まれ、孤児となって不遇な少年期を過ごしたが、卓越した才能でしだいに出世していき、1655年にはフランス王ルイ14世のもとで技師として働くようになる。
要塞の構築と修復が専門だが、要塞の攻囲戦にも才能を発揮し、「ヴォーバンが攻囲した町は必ず落ち、 ヴォーバンが要塞を築いた町は絶対に落ちない」といわれた。 ヴォーバンの築城術は「第3方式」で確立され、1706年、ライン川の左岸で完成したヌフ・ブリザック要塞だけでこの方式が用いられた。ヴォーバン攻囲戦の特徴は、攻城部隊の主力を掩護するために「対壕」や「騎兵式胸壁」などの臨時防御施設を構築し、同時に抗道戦も行って主攻城作戦を掩護することにある。攻囲戦は彼によって初めてシステム化された。
晩年は人民の貧困に興味を持ち、生活水準や租税負担を研究して、下層民に特に税負担が大きいことに気づき、税負担の平等を要求するため「王室の10分の1税」 Projet D'une Dixme Royale を書いたが、 これによって機嫌を損ねたルイ14世は、ヴォーバンの著作を焼き捨てるように命じた。

★ヴォーバンはいわゆる、巨大火器の登場に対応する新しい形式の城塞を作り上げ、戦術家としても優れていた。もちろんそこに、ウィチグスの魔法書が関連していたのかは定かではない。 彼の作成した城塞は、ロシュフォールやブザンソンに残る。 宰相マザランの知遇を得、ルイ14世治下で各地を参戦フランドルの戦に戦功をたてた。その後元帥の地位まで上り詰めたが、王室十分の一税を提唱(つまり貴族にも課税せよということらしい)、経済政策の批判を行ったかどで投獄された。

ブザンソンに現存するヴォーバン設計の城塞
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ヴォルテール

271
▼大体こう云った古風な家で、書架に必ず姿を現わすものと云えば、まず思弁学でヴォルテール、文学ではゲーテだ。271p

■Voltaire (1694-1778) フランスの文学者・啓蒙思想家・歴史家。本名、フランソワ・マリー・アルエArouet ,Francois Marie。
1694年に裕福な公証人の子としてパリに生まれる。はじめ父の意向で法律を学んだが、やがて文学を志す。
1717年に王族や貴族への諷刺詩の著者と疑われ、バスティーユに投獄された。釈放後、悲劇「エイディプス」を上演して公表を博すが、貴族との諍いが原因で1726年に再びバスティーユに投獄される。2週間で釈放され、イギリスに亡命。イギリスではスウィフトやポープらと交わった。
帰国後の1734年「哲学書簡」を発表。絶対王政下のフランスを痛烈に批判して発禁処分となったが、名声を高めた。1749年フリードリヒ2世の招きでプロイセンに渡り、『ルイ14世時代史』を著す。後にジュネーヴやスイス近郊のフェルネに住んで『寛容論』や『哲学辞典』を著した。

★法水の言でいえば小説ではなく哲学書なのかもしれないけれど、某百科事典の記載によれば冒険小説のご先祖「カンディード」(←テリー・サザーンの奇妙な遍歴小説「キャンディ」はこれを下敷きにしていた)も探偵小説の先駆「ザディグ」も哲学小説だそうだから、黒死館の書棚には並んでいただろうか。他に「バビロンの王女」「ミクロメガス」など魅力的な作品がある。 他の啓蒙主義者ディドロも「おしゃべりな宝石」なるエロティックな作品を書いているし、侮るべからず哲学者とでも言えようか。

一八世紀の彫刻家ウードンの傑作 Jean-Antoine Houdon "Voltaire" (1781)
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荒野ヴュステ

491、600、(ルビなし)355、492
▼ですから法水さん、これで、何時ぞや貴方に申し上げた、霊性と云う言葉の意味が――つまり、父から子に、人間の種子が必ず一度は彷徨わねばならぬ、あの荒野ヴュステの意味がお判りで御座いましょう。そうして、今日クリヴォフ様が斃されたのですから、そうなると、当然算哲様の影が、あの疑心暗鬼の中から消えてしまうでは御座いませんか。ああ、この事件は凡ゆる犯罪の中で、道徳の最も頽廃した型式なので御座います。600-601p
■Wuste 荒れ地、砂漠 【SSDD】

ヴュルテンベルグ

369
▼恐らくこの光景は、もしこの時、綴織の下った長管喇叭の音が起って筒長太鼓が打ち鳴らされ、静蹕を報ずる儀仗官の声が聴かれたなら、恰度それが、十八世紀ヴュルテンベルグかカリンティア辺りの、小ぢんまりした宮廷生活を髣髴たらしめるものであろうし、また反面には、従えた召使の数に、彼等の病的な恐怖が窺えるのだった。369p

■Wurttemberg 王国【H.A】
■ヴュルテンベルク ドイツ南部、シュヴァルツヴァルト、ボーデン湖に接しバーデン地方とバイエルンにはさまれる。シュトゥットガルトを含む。一九世紀初頭王国となる。
■神聖ローマ帝国初期のシュヴァーベン大公領を母体とし、徐々に支配領域を拡張していった。ナポレオン戦争最中の1803年に選帝侯となり、1806年に帝国が崩壊すると王国へと昇格した。この際、教会領など多数の小領邦を併合して、シュヴァーベン地方の大部分と南フランケン地方の一部を支配下に収めた。ただし、プロイセン王家=ホーエンツォレルン家の発祥の地である旧ホーエンツォレルン伯領は、プロイセン王国の飛び地ホーエンツォレルン州とされた。以後ドイツ連邦・南ドイツ連邦への加盟を経て1871年にドイツ帝国の構成国となり、1918年のドイツ革命まで存続した。第二次大戦後、旧バーデン大公国領のバーデン州と合併してバーデン=ヴュルテンベルク州となった。



ヴュルテンベルク王国の栄華を示すLudwigsburg Palaceの内部
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