う01 臼杵うすき耶蘇会神学林ジェスイットセミナリオ>>>水精よ蜿くれウンディヌス・ジッヒ・ヴィンデン

臼杵うすき耶蘇会神学林ジェスイットセミナリオ194
『乳母の踊り』364→ストラヴィンスキー
三たび魔神の呪咀に萎れウイズ・ヒケイツ・バン・
スライス・ブラステッド・スライス・インフェクテッド
361,三たび魔女の呪咀に萎れ毒気に染みぬる
ウイズ・ヒケイツ・バン・スライス・ブラステッド・スライス・インフェクテッド397
ウイチグス200,・呪法書200,・呪法典200,201,207,・呪法290,432,・呪法精神329
・の師父326→ゲルベルト→シルヴェステル二世
ウイリス徴候393
維納ウイーン新心理派493,維納ウインナ第四学派460
ウイリアム・シシル卿409
ウエストファリア人441
ウエバー生理学者・452
ウェリントン624
威人ウェールス337,338,355
驚駭噴泉ウオーター・サープライズ210,465,466,470,471,485,499,バロック時代に盛った悪趣味・465,・の水煙466
ウファ映画624→会議が踊る
ウムブリヤの泣儒なきおとこ354
ウラニウム639,・放射能387
第一稿ウル・ファウスト428,ファウスト・428
水精ウンディネスピルディング湖の・425
水精よ蜿くれウンディヌス・ジッヒ・ヴィンデン260,268,271

臼杵うすき耶蘇会神学林ジェスイットセミナリオ

194
▼四百年の昔から纏綿てんめんとしていて、臼杵耶蘇会神学林うすきジェスイットセミナリオ以来の神聖家族と云われる降矢木ふりやぎの館に、突如真黒い風みたいな毒殺者の彷徨が始まったからであった。その、通称黒死館と呼ばれる降矢木の舘には、何時いつか必ずこういう不思議な恐怖がおこらずにはいまいと噂されていた。194p

★臼杵には、同年(1580)12月24日、ノビシアード(修練院)が設けられた。【かくれキリシタン NHK B 22p】
★「日本における最初の神学校」(1601-1614)ヴァリニャーノの教育計画 Hubert Cieslik S.J.

★グレゴリウス13 世(Gregorius XIII, 1502-1585, 在位1572-1585)はイタリアのボローニャ(Bologna)に生まれた。本名をウーゴ・ブォンコンパニ(Ugo Buoncompagni)といい、同地で法律学の教授を務め、その後スペイン駐在教皇特使を経て枢機卿となり、1572 年に教皇の位に就いた。在位中はトリエント公会議令の完遂に努め、1582 年にはユリウス暦を改正して、所謂グレゴリオ暦を制定し、グレゴリオ聖歌集を改訂した。また聖職者養成のため教育事業を強力に推進して多くの神学校をヨーロッパに設立し、ローマにはその中心となるグレゴリア大学を創設した。教皇はインドやアジアでの布教にも熱心であった。1585 年、83 歳の折に地球の果てと思われていた日本から3 年をかけて天正遣欧使節がローマに到着したが、彼等に対する歓待や寵愛ぶりは尋常ではなかったとされている。本書はこの少年使節のことに言及し、病気のために先んじて特別に謁見を許された中浦ジュリアンを除く伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノの3 名が、教皇の足下に跪き接吻する情景を図版に掲げている。教皇在位中に、日本では1580 年にイエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano, 1539-1606)によって三種の教育機関が設置された。これは同教皇の方針に沿ったもので、安土と有馬の二つの神学校(セミナリオ)と府内(大分)の学院(コレジオ)と、臼杵の修練院(ノビシャド)の四校が建築された。
チャッピ 『教皇グレゴリオ13世偉業要略』CIAPPI, Marc’Antonio Compendio delle heroiche et gloriose attioni,et santa vita di Papa Greg. XIII Roma, 1596

★虫太郎はセミナリオ(イエズス会司祭・修道士育成のための初等神学校:ポルトガル語:seminaryo)という語を使っているが、現在では臼杵に建設されたのは、ノビシャド(キリシタン時代に移転していったイエズス会系の教練所:ポルトガル語:noviciado)と歴史用語として呼ばれている。


「グレゴリオ13世功業録 1596」に示された日本の洋風建築。【明治の建築 日経新書 16p】
★これが黒死館、ひいては虫太郎の発想の根幹かもしれない。こんな絵が残されていること自体奇跡のようなものだと思う。
読みにくいかもしれないが、図中のキャプションによるとこのような建造物が実在したかどうかは不明らしい。
右上の建物が臼杵のもの。Casa professa della compagnia di giesu in Uxuqui citta nell's sota del giappone と説明書きがある。他は右下が府内(大分)、左上が有馬、下が安土である。
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『乳母の踊り』

364→ストラヴィンスキー
▼「僕はその『ペトルーシュカ』が、ストラヴィンスキーの作品の中では、一番好ましいと思っているのです。恐ろしい原罪哲学じゃありませんか。人形にさえ、口を空いている墳墓はかあなが待っているのですからね」  冒頭に旗太郎は、全然予期してもいなかった言葉を聴いたので、その蒼白くすんなり伸びた身体が、急に硬ばったように思われ、神経的に唾を嚥み始めた。法水は続けて、
「と云って、貴方が口笛で『乳母の踊り』の個所ところを吹くと、それにつれて、テレーズの自動弾条人形ペトルーシカが動き出すと云うのではないのです。それに、また昨夜ゆうべ十一時頃に、貴方が紙谷伸子と二人でダンネベルグ夫人を訪れ、それからすぐ寝室に入られたと云う事も判っているのですからね」364p

■「ペトルーシュカ」中の小曲 Danse de nournous
★人形が本作の重要なキーワードになっている中で、これも有名な人形テーマのバレー音楽。
★それにしても、この音楽は当時の現代音楽だったはず、虫太郎の音楽に対する造詣の深さはなかなかのものであった。

1920年代挿絵本の至宝「VASLAV NIJINSKY」より。
バルビエ・コレクションV「ニジンスキー/カルサヴィナ」鹿島茂編 (リブロポート所収)。
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三たび魔神の呪咀に萎れウイズ・ヒケイツ・スライス・ブラステッド・スライス・インフェクテッド

361,三たび魔女の呪咀に萎れ毒気に染みぬるウイズ・ヒケイツ・バン・スライス・ブラステッド・スライス・インフェクテッド397

▼「いや、どうして」と真斎は頸を振って、「三たび魔神の呪咀に萎れ、毒気に染みぬるウイズ・ヒケイツ・バン・スライス・ブラステッド・スライス・インフェクテッド――とは、決して」と次句で答えたが、異様な抑揚で、殆んど韻律を失っていた。のみならず、何故か周章あわてふためいて復誦したが、却ってそれが、真斎を蒼白なものにしてしまった。361p

■ACT3 SC.2 266
Luc. Thoghts black, hands apt, drugs fit,and time agreeing ;
Confederate season, else no creature seeing ;
Thou mixture rank, of midnight weeds collected,
With Hecate's ban thrice blasted, thrice infected,
Thy natural magic and dire property,On wholesome life usurp immediately.
[Pours the poison into the sleeper's ears.
【HAMLET Shakespeare notes by S. Ichikawa Kenkyusha 1928】

■ルシアナス 心も黒く、手も達者だ、藥も利き時もよい。四邊に人一人だに見るものもない、かかる仕事に恰好な時も時。汝眞夜中に摘まれた草、魔王ヒカテの呪いに三度枯れて三度毒氣に染みし草の臭き液よ、汝の天然な魔力邪力を盡して、すぐにも健やかなる生命にききめをみせい。
【ハムレットACT 3 SC.2 戯曲全集3 英吉利編1 シェイクスピア集 佐藤篤二譯】

■心は黒し夜も黒し、薬も利きて手も冴えたり。折りもよしや人も無し。汝真夜中の暗に摘みて、三たび魔王ヘケートの呪のろひに萎れ、三たび毒気に染みぬる草の臭き液しるよ、汝が怖しき天然の魔力を以て、すぐにも健かなる命を奪へ。
【ザ・シェークスピア 736p 坪内逍遙譯 第三書館】

★「ハムレット」は虫太郎のお気に入りだったようで、このすぐ後に書かれた「オフェリア殺し」では、法水自身にハムレット役をやらせたりしています。ここは劇中最も怪奇味の強いせりふですね。
虫太郎渾身の詩歌合戦、まことに見事なものです。ただ、魔神、魔女と言葉が変わっています。ご注意下さい。ご覧の通り当時の訳ではHecateは魔王となっていました。Hecateについては別項で。

ウイチグス

200,・呪法書200,・呪法典200,201,207,・呪法290,432,・呪法精神329,・の師父326→ゲルベルト→シルヴェステル二世
▼元来ウイチグスという人は、亜刺比亜・希臘アラブ・ヘレニックの科学を呼称したシルヴェスター二世十三使徒の一人なんだ。所が、無謀にもその一派は羅馬ローマ教会に大啓蒙運動を起した。で、結局十二人は異端焚殺に逢ってしまったのだが、ウイチグスのみは秘かに遁のがれ、この大技巧呪術書を完成したと伝えられている。それが後年になって、ボッカネグロの築城術やヴォーバンの攻城法、また、デイやクロウサアの魔鏡術やカリオストロの煉金術、それに、ボッチゲルの磁器製造法からホーへンハイムやグラハムの治療医学にまで素因をなしていると云われるのだから、驚くベきじゃないか。200p

★黒死館における第一のつまずきの石。当時虫太郎の参照できた、シルヴェステル二世のロマンティックな評伝でもあったのだろうか。
★シルヴェステル二世には幾人かの弟子がおり、晩年政治上の問題で法王の地位を追われ、監視付きの条件でローマに戻ったというエピソードがある。 また、ウイチグスの名前のヒントとして六世紀半ばのゴート王Witigesがおり、オットー三世の当時彼の危機を救ったマインツの大司教がWiligisである。
★ウィチグスについては、読みから推定して幾人かの候補を一応上げたが、実際の業績が該当しなかった。
★軍事的施設としての城や城郭都市は,古来城攻めの対象となってきたが,ヨーロッパで攻城術がもっとも多様に発達したのは中世である。ただ,飛び道具や攻城兵器などのアイディアの多くは古代ギリシア・ローマ時代に知られており,中世人もまずそこから学んだことは,5世紀前半のローマ人ウェゲティウス Vegetius(383?〜450?)の《軍事技術論 Epitoma rei militaris》の中世写本が多く残されていることに示されている。【平凡社DVD版大百科 「城攻め」】

★「薔薇物語」の作者、ジャン・ド・マンによってウェゲティウスの《兵法》が仏訳されている。フルネームはVegetius Flavius Renatus。ネットで検索したところ後世の版本が何点か残っており、その影響力があきらかであり、その実現不可能にも見える奇妙な挿絵を見ると、虫太郎の記述に合致しているようだ。
水中歩行法

人面戦車

★もちろん、ローマ時代末期の著作家と作中のシルヴェスター二世(10世紀末)との関連は虫太郎流のアナクロニズムであるが、ウェゲティウスの中世での影響を勘案すると間違いとは言い切れない点があると思う。
創元科学叢書 ディールス「古代技術」昭和18年初版には、ヴェゲティウス表記で通信法と弩に関して記述があり、シンガー「魔法から科學へ」北隆堂昭和19年初版にはフラヴィウス・ヴェゲティウス・レナトゥス表記で「獣醫術集成Digestorm artis Mulomedicinae」という著作について述べられている。
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ウイリス徴候

393
▼そこで、僕は推断を下しました。機関の騒音があるにも拘らず、当然圧せられて消されねばならない、いや、通常の状態では絶対に聴く事の出来ぬ音を聴いたからだ――と。然し、それは当然奇蹟でもなければ、勿論僕の肝臓に変調を来した結果でもありません。医学上の術語でウイリス徴候と云って、劇甚な響と同時に来る微細な音も、聴き取る事が出来ると云う――聴覚の病的過敏現象に過ぎんのですよ 393p

■Willis's paracusia 錯聴。耳硬化症の時に認められたる症状
■Willis, Thomas (1621-75) 【MD】イギリスの解剖学者、医者。三叉神経分枝にその名を残す。
氏アック難聴は伝音性難聴で,聴力検査では気導聴力の損失は大きいが,骨導聴力は正常か,あるいは軽度に低下する程度である。初期には静かなところでは大きな声でも聞こえにくいが,騒がしいところではかえってよく聞こえるというウィリス錯聴paracusiaWillisiana がみられることがある。【大百科】
■耳硬化症:若年性・両側性・進行性の伝音難聴で、白人に多く日本人など有色人種には少ない。 耳小骨(ツチ骨・キヌタ骨・アブミ骨)のうち、アブミ骨の底板と卵円窓(前庭窓)の癒着が起こる。 その初期には、周囲が騒がしいとむしろ良く聞こえるように感じる現象が見られ、ウィリスの錯聴と呼ばれる。

Thomas Willis " Opera Omnia"(1664) より脳の解剖図
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維納ウイーン新心理派

493,維納ウインナ第四学派 460
▼維納新心理派に云わせると、それを徴候発作ジムプトンハンドルンゲンと云うのですが、目的のない無意識運動を続けている間は、最も意識下のものが現われ易い。493p

■新(第二)ウィーン学派:Second Viennese School
英語表記ではsecondを用いるが、日本では「新」と訳すことが多い。アルフレッド・アドラーによって創始された心理学理論「個人心理学」を支持する人々。人間の行動の根源を「権力への意志」であるとし、権力への意志が満たされないことで発生する劣等感が人間の様々な問題を引き起こすという。これは人間行動の根本動機をリビドーであるとしたフロイトの説に異を唱える形で提唱された。

★心理学・精神医学におけるウィーン学派とは、ジークムント・フロイトによる「精神分析学」を第一、アルフレッド・アドラーの「個人心理学」を新(第二)とする。第三ウイーン学派は、『夜と霧』の著者として知られるヴィクトール・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl,1905-1997)が「実存分析」をもとに創始した、自らの「生の意味」を見出すことを援助することで心の病を癒す心理療法ロゴセラピーLogotherapyを中心にいう。

★ロゴセラピーという語が最初に登場したのは、1926年の「医学心理学学術協会」でフランクルが使用したとされる。アドラーによって「個人心理学協会」を除名された後、1929年に「青少年相談所」を設立したことによって、ロゴセラピーの実践が本格化した。『黒死館』が書かれた1934年当時、虫太郎が第三学派を知ることができたかは、確認できていない。ただし、「ウィーン第四学派」という語は存在が確認できておらず、第一/第二学派の存在を知る虫太郎の造語ではないかと考えられる。
関連文献「V・E・フランクルの生涯と思想1」 廣岡義之(梅光学院大学紀要論文2004)

★心理學に關するヴァンスの造詣は實に深かった。彼にはその天稟てんぴんとして人間を本能的に正確に判斷する能力があった。しかもこの天賦がかれの讀書と研究とによって培はれ、驚くべき程度に合理化されたのである。彼は心理學のアカデミックな原則をまづ研覈けんかくした。大學における彼の學習は殆ど全部この題目の下に集注された。當時、私は不法行為や契約や、基本法、一般法、衡平法、實證および辯正といふやうな局面にのみ頭を突込んでゐたが、ヴァンスはその間に文化科學のあらゆる分野を、彼の異常な才能を驅使して踏破した。彼は學習科目として宗教史、ギリシャ古典、生物學、公民學および政治的經濟、哲學、人類學、文學、理論および實驗心理學、古代および近代言語學などを選んだ。たゞし彼が就中、興味をふかくつないだのは、ミュンステルベルグヘ授とウィリアム・ジェームスヘ授の兩講座だったらう。
【「ベンスン殺人事件」春陽堂版14-15p】
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ウイリアム・シシル卿

409
▼原注(エリザベス朝に入ってから、ハンザ承認に弾圧を加えた政治家)409p
■William Cecil, Baron Burghley(1520-98) イギリス エリザベス朝の政治家【IB】
■一時はロンドン塔に幽閉されたこともあったが、老練な政治家として〈セシル王国〉とも言われる権勢を振るい、敵対する勢力の攻撃を交わし終生宮廷政治を牛耳った。イングランド女王エリザベス1世の宰相、初代バーリー男爵。
William Cecil
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ウエストファリア人

441
▼「これは今世紀の始め、ゲッチンゲンに起った出来事なんだが、オット・ブレーメルと云う、如何にもウエストファリア人らしい鋭感的な少年が、同地にあるドミニク僧団の附属学園に入学したのだ。441p

■Westfallin【SSDD】
■ウェストファーレン Westfalen 古くはザクセン部族の一支族(ウェストファーレン族)およびその居住地域の総称。地域主義的伝統は根強く残り,とりわけ農民層は内向的・保守的気質,旧来の習俗,言語(低地ドイツ語の亜種であるウェストフェーリッシュ Westfalisch)を保持し続けた。【大百科】

"Ratification of the Peace of Westphalia 1648 in M?nster" Gerard Ter Borch (1648)
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ウエバー

生理学者・452
▼まして、生理学者ウエバーのように自企的に心動を止め、フォンタナのように虹彩を自由自在に収縮できるような人物に打衝った日には、あの器械的心理試験が、一体どうなってしまうんだろう。452p

■Weber,Eduard Friedrich Wilhelm (1806-71) 神経系の生理に関する研究で有名。
■Weber,Ernst Heinrich(1795-1878)解剖学者、生理学者。

★共にドイツの生理学者で兄弟である。脈拍の波動の研究をし1825年《Wellenlehle 波動論》を発表した。1845年にはナポリで開かれた学会で、カエルを用いた実験から迷走神経に電気刺激を加えると心臓の動きが抑制されることを報告し、神経系の作用によって自律運動が妨げられる現象を示唆した。
In 1845 Eduard Weber discoverd that if he stimulated frog's vagus nurve(a major nurve linking the brain to various internal organs) the frog's heart would beat slower. This was the first ovservation that increased activity(sutimulation) of one part of the neuromusclar system caused decreased activity in another.Weber found that stimulating the vagus nerve inhibited heart rate.
"An Introduction to the History of Psychology " B. R. Hergenhahn 1986

Weber,Eduard Friedrich Wilhelm
Weber,Ernst Heinrich
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ウェリントン

624
▼(原注)聴耳筒ラウシュレーレン――。西班牙宗教審問所に設けられたのが最初。ウファ映画「会議が踊る」の中で、メテルニッヒがウェリントンの会話などを盗み聴くあれがそうである。624p

■Wellington, Arthur Wellesley TDuke of(1769-1852) 英国のウィーン会議主席全権(1815)ナポレオンをウォータールーにて破る(1815.6.18)【IB】
■初代モーニングトン伯爵ギャレット・ウェルズリーの子としてダブリンで生まれる。陸軍でその軍事的才能を開花させ、一時期、下院議員となった。兄が総督を務めていたインドで戦功を重ね、イギリス本国に帰還。ナポレオンのスペイン侵攻の際に指揮をとり、最強であったナポレオン軍に勝利を重ねてたため、ヨーロッパで無名だった彼は一躍英雄となり、その功績で公爵に叙せられた。ウィーン会議でカッスルレーがイギリスに帰還すると全権大使代理を務める。ワーテルローの戦いではナポレオンの激しい攻撃を退けて、プロイセン軍の到着まで持ちこたえ勝利を収めた。ウィリアム王戦争から続くイギリスとフランスの第二次百年戦争はこれで終わり、イギリスが世界の覇権を握ることとなった。その後は首相となり、アイルランドのカトリック解放令などを成立させた。通称「鉄の公爵」(Iron Duke)。

★映画「会議は踊る」では宰相メッテルニヒをコンラート・ファイトが演じているが、ウェリントン公を演じた役者のクレジットはない。

ウェリントン公アーサー・ウェルズリー
関連サイト

威人ウェールス

337,338,355
▼「ねえ支倉君、キャムベルに云わせると、重症の失語症患者でも、人を呪う言葉は最後まで残っていると云うじゃないか。また、凡て人間が力尽きて、反噬する気力を失ってしまった時には、その激情を緩解するものは、精霊主義以外にはないと云うがね。明かに、これは呪咀だよ。何より、ディグスビイは威人なんだぜ。未だに、悪魔教バルダスの遺風が残っていて、ミュイヤダッチ十字架風の異教趣味に陶酔する者があると云われる――あのウェールス生れなんだ」355p

■Wales,welsh ウェルス人の【SSD】
■ウェールズには先史時代からケルト系のブリトン人(キムリ人)の小部族が分立していたが、1世紀後半以後ローマの支配下に入った。〈ウェールズ人(ウェルシュWelsh)〉とは、古英語で〈異邦人〉を意味する。かつてはブリタニアの支配者であったブリトン人は、イギリス人(アングロ・サクソン人)に圧せられてウェールズの地に押しこめられ、よそ者と呼ばれるにいたったのである。以後のウェールズの歴史は、イングランドとの絶えざる闘争のうちに、しだいに自立を失っていく歴史である。
1282年その主権を象徴する〈プリンス・オブ・ウェールズ〉の称は、エドワード1世の長子エドワード(後のエドワード2世)に与えられた。
ウェールズではその後もしばしば独立回復を求める反乱がおこったが、チューダー朝の始祖ヘンリー7世がウェールズ人の血統をひき、かつ彼がボズワースの戦で対立者のリチャード3世を敗死させて即位したとき、多数のウェールズ人の援助を受けたこともあって、ウェールズ人はチューダー朝諸王を単にイングランドだけでなく、みずからの王と認め、ここにイングランドとウェールズの関係は好転した。そして次のヘンリー8世時代の1536年〈合同法〉により、ウェールズにイングランドと同じ法、自治制度、代議制がしかれ、また全土が州に分けられ、法制上はイングランドに合体するにいたった。【大百科】

驚駭噴泉ウオーター・サープライズ

210,465,466,470,471,485,499,バロック時代に盛った悪趣味・465,・の水煙466
▼尚、刈込垣の前方には、パルナス群像の噴泉があって、法水が近附くと、突如奇妙な音響を発して水煙を上げ始めた。「支倉君、これが驚駭噴泉と云うのだよ。あの音も、また弾丸のように水を浴びせるのも、みんな水圧を利用しているのだ」と法水は飛沫を避けながら、何気なしに云ったけれども、検事はこのバロック風の弄技物から、何となく薄気味悪い予感を覚えずにいられなかった。210p
▼その驚駭噴泉の頂上は、黄銅製のパルナス群像になっていて、水盤の四方に踏石があり、それに足をかけると、像の頭上から各々の側に、四条の水が高く放出される仕掛になっていた。そして、その放水が、約十秒程の間継続する事も判明した。所が、その踏み石の上には、霜溶けの泥が明瞭な靴跡となって残っていて、それに依るとレヴェズ氏は、その一つ一つを複雑な径路で辿って行って、しかも各々に、只の一度しか踏んでいない事が明かになった。471p

★驚愕噴水Surprise fountain127,142,229ウオーター・マジックwater magic127【索引 西洋造園変遷史 針ヶ谷鐘吉 彰国社】
★多分国内ででている庭園史としては一番網羅的であろうと思われる下記の書にもウォーターサープライズの語はでてきません。これも彼の造語なのでしょうか。

★イタリーに於いては、16世紀中既に噴水劇場の如き極度の發展を遂げてゐた庭園内の噴水藝術は、バロッコ時代に入っては何等見る可き發展を遂げてゐなかった。種々な技巧が其に加へられ、珍奇な施設がなされてはゐたが、寧ろ其等は噴水藝術としては、邪道であったと云へよう。例へば、魔法の水Guiocchi delle aqueと謂はれてゐたものの如きが其れである。人が或る特定の芭蕉に近づき、或は特定のいすに坐すと、突然水が噴出し頭上から水を浴びせる樣な仕掛をして、さうした惡戲をみて笑ひ樂むと云ふ樣な全く惡趣味な極りを盡す樣になった。
【日時計とファウンテン 吉田享二 造園叢書第16巻 雄山閣s3 151-2p2】




★ヘルブルンSchloss Hellbrunn 可なり古い17世紀の初期、マルクス大僧正の館として營まれたものだが、庭の大部分は後年仏蘭西風に改められた。しかし、當時の庭園に流行であった魔法の水仕掛け──建物からも、彫像からも、腰掛けからも、道端からもと云ふ風に、細い水が縦横無尽に迸り出る噴水装置──が、今も尚見られる。ネプチューンの窟と云ふのがあるが、此處だけでも噴水孔が5千も仕掛けてあると云ふことである。【WA別13解説 本郷高徳 平凡社s6】
★ヘルブルンに関してもっと親切な解説が必要な方は平凡社刊の「ヨーロッパ100の庭園」巖谷國士著をどうぞ。 庭園史的にも、ガイドとしても最高の部類でしょう。107pに実際のヘルブルン宮殿における驚駭噴泉の写真があります。
こちらのサイトで現存する水仕掛けをスライドショーでみることができます。


モンドラゴーネ(フラスカチ) Borghese Villa Mondragone
★1567年にマルチノ・ルンギがカーデナル・アルテンボの爲に起工し後法王グレゴリ7世に依って擴大され遂にポール5世と其甥カーデナル・ボルゲゼに依って完成されたものである。庭園中ヴィニヨーラの設計に成るロヂアとヂオヴァニ・フォンタナの作水の劇場が最も價値のあるものである。水の劇場は廢址の状態であるが猶ほモザイクや吃驚噴水其他ニッチ中の彫刻等の痕跡をみることが出來る。【歐州の庭園 戸野琢磨 雄山閣s.3】

Thames&Hudson "ITALIAN GARDENS"Georgina Massonより 【ヴィラ・モンドラゴーネの水劇場】の古版画
★現在はイエズス会の学校として使われているため邸内へは入れないそうです。
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ウファ映画

624→会議が踊る
■ufa Universum-Film-Aktiengesellshaft萬國映画株式会社の略【SSDD】

■1917年12月,当時の有力な製作会社を合併したウーファ UFA(Universum‐Film AG)が設立され,ドイツ映画を支配するとともに,その後のドイツ映画の方向を決定づけることになった。
敗北に終わった第1次大戦後のドイツ映画の特色の一つは,演劇や美術における表現主義の影響で,その様式を借りたロベルト・ウィーネ監督《カリガリ博士》(1919)などがドイツ映画の国際的地位を確立したばかりでなく,これらの作品によって〈映画〉が初めて〈芸術〉になったとさえいわれた。〈表現主義映画〉は,ある意味では小市民的な芸術であったが,映画資本家に利用されなかった純粋な映画として,のちにフランスの〈純粋映画〉とかかわりをもつことになった〈絶対映画absoluter Film〉にもつながるものであり,ハンス・リヒターの《リズム21》(1921),スウェーデン出身のビキング・エッゲリングの《対角線交響曲》(1924),ワルター・ルットマンの《ベルリン――大都会交響楽》(1927)などを生んだ。
その後ドイツ独自のトーキー・システム〈トビス・クラングフィルム Tobis‐Klangfilm式〉が完成され,1929年ころから本格的な製作が始まり,同時に高度なトラスト化が進んでウーファとトビス Tobis の二大映画会社が市場を支配した。ワルター・ルットマン監督《世界のメロディ》(1929),ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督《嘆きの天使》(1930),ラング監督《M》(1931),エリック・シャレル監督《会議は踊る》(1931),レオンティーネ・ザガン監督《制服の処女》(1931),ウィリー・フォルスト監督《未完成交響楽》(1933),《たそがれの維納(ウイーン)》(1934)などがつくられた。【大百科】

★虫太郎はエンターテイメントのすべてのジャンルに興味をもっていたが、映画趣味もなかなかで「リリアン・ハーヴェイ」を初めとする映画に関するエッセイがある。

フィリッツ・ラング監督 『メトロポリス』ポスター
関連サイト

ウムブリヤの泣儒なきおとこ

354
▼またそれ等の樹木に取り囲まれた中央の葬龕は、ウムブリヤの泣儒を浮彫にした薬研石の台座まではともかくとして、その上に載せられた白大理石の棺蓋になると、はじめて異様な構想が現われてくるのだった。354p

■Umbria イタリア、ウンブリア州。州都ペルージャ。古代エトルリア人が多く住んだ。

★Tarquinia,Tomba degli Auguri:Ruckwand
タルクィニアの大画像式葬祭絵画の中では最も古い例証のひとつ。中央には大きな偽扉、その両側面には悲嘆にくれる有髭の男(恐らく神官)各1人、その上の破風には動物格闘図が描かれている。質的に極めて優れたこの絵画はアルカイック後期の作品で、イオニアからの強い影響が明らかである。紀元前520年頃、長さ2.60m、高さ1.90m。
★『エトルリアの壁画』 【M.パロッティーノ 青柳 正規 訳  岡村 崔写真1985、岩波書店】および『エトルリアの遺跡』【D.H.ロレンス 土方定一・杉浦勝郎訳 1973 美術出版社】でも同じ写真をみることができる。
関連サイト  関連サイト

ウラニウム

639,・放射能 387
▼勿論この瀝青様のものが、ウラニウムを含むピッチブレンドである事は云うまでもあるまい639p
▼従って、サントニンに依って浮腫や発汗が皮膚面に起ると、当然、そこに凝集している砒石の成分層が、ピッチブレンドのウラニウム放射能をうけなければならないだろう。387p

■uranium=Uran  独(天王星 Uranus に因む)放射性元素の1。ピッチブレンド・カルノー石などを原料とする。 ウラニウム。【広辞苑】
■放射能 radioactivity 放射性物質が放射線を出す現象または性質。【広辞苑】
■ピッチブレンド(pitchblende、瀝青ウラン鉱)は、塊状の閃ウラン鉱(非晶質)。ピッチ状の油脂光沢を持つことから命名された。Uraninite。

ノースカロライナ産ピッチブレンド
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第一稿ウル・ファウスト

428,ファウスト・428
▼ゲーテの「ファウスト第一稿」と第二稿、第三稿との比較も試みたけれども、結局その第一稿には、第二稿以下には判然としていない地霊(即ち、ウンディネ・ジルフェ・サラマンダー・コボルトを眷属とする大自然の精霊)が、壮大な哲学的な姿を出現させているのみであった。428p

■1772-1775年 ゲーテの『ファウスト』初稿本("urfaust")成立.【ファウスト集注 年表・高橋 郁文堂】
■エリッヒ・シュミットによって発見された第一部の習作の写本を1899年公刊。この版には「ワルプルギスの夜」の場面がない。

水精ウンディネ

スピルディング湖の・425
▼「ところで君は、スピルディング湖の水精ウンディネを描いた、ベックリンの装飾画を見たことがあるかね 425p
■Undine 四精霊のうち水を司る精霊。湖や泉に住み美しい女性の姿をとる。
「ウンディーネ」を題材にした作品は、フリードリッヒ・フーケの小説『ウンディーネ』、ジロドゥの劇などが知られる。
■Spirding L. 東プロイセン南東部にある湖沼台地最大の湖(現ポーランド領)現Sniardwy.【Times Atlas】ブロックハウスは旧名。


「波間の戯れ」ベックリン "Spiel der wellen" Arnold Boecklin (1883)
★ベックリンは、幻想的な題材を好んで描いた画家ですが、水の精が好みだったらしく、魅力的な作品がたくさんあります。
図は原題を"spiel der wellen"といいます。なぜこんなことを書くかというと、虫太郎いうところの「スピルディング湖の水精ウンディネ」という題名はこの原題の語感からの勘違いではないかと思うからです。画家はスイス生まれのドイツ系で生涯をイタリアやスイスで過ごし、ヨーロッパ北部にあるスピルディング湖とはほとんど関連づけられませんでした。


「ウンディーネ」劇の舞台衣装
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水精よ蜿くれウンディヌス・ジッヒ・ヴィンデン

260,268,271
▼「オヤ妙な転換があるぞ。元来この一句は、水精ウンディネよ蜿うねくれ──なんですが、これには、女性のUndineうんでぃねにusをつけて、男性に変えてあるのです。然し、これが何から引いたものであるか、御存じですか。それから、この館の蔵書の中に、グリムの『古代独逸ドイツ詩歌傑作に就いて』かファイストの『独逸ドイツ語史料集』でも」268p

■undineは、動物の身体に潜んでいる時には、身をねじり、くねらせることによって、その正体を現すといわれている。【集注65p】

■Faust. Erst zu begegnen dem Thiere, Brauch' ich den Spruch der Viere;
Salamander soll gl?hen,
Undine sich winden,
Silphe verschwinden,
Kobold sich m?hen.

■ファウスト
こんな獸に立ち向ふには、先づ四大の咒がいる。
「火の精 サラマンデルSalamander 燃えよ。
 水の精 ウンデネUndine うねれ。
 風の精 シルフェSylphe 消えよ。
 土の精 コボルドKobold いそしめ。」
【ファウスト第1部 書斎の場 1270-1275行 鴎外全集 翻訳編戯曲1 109p】


London News 15 July 1843に掲載されたバレエ・ウンディーネ


バレエ舞台装置"Ondine -Performance at Peterhof" Adolf Charlamagne (1851)

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