つむじのある娘たち 妖精苑=ル・ジャルダン・ド・ラ・フェー=

《序詞》   つむじのある娘たち

       小ちゃい娘がをりました。
      ちゃうど額のまんなかに
      ちっちゃいつむぢがありました。
      いい時やほんとにいい娘。
      いったんわるいとなった時ゃ
      それこそほんとにいやな娘。
           〈 マザア・グース 〉水谷まさる譯


★ドロレス・ヘイズ

 「ロリータ」絵はがきから

 その愛らしい横顔、かるくひらかれた唇、温い髪の毛がむき出しになったわたしの糸切り歯から三インチそこそこの距離にあった。そして、彼女のおてんば娘らしい粗末な服を通して、腿 の温みがつたわってきた。 新潮文庫「ロリータ」〈大久保康雄訳〉
 
 「アリス」の最初のロシア語翻訳者であったナボコフは、このスキャンダラスな作品でもたくさんの言葉あそびを散らばらせながら、ハンバートさんの奇妙な殺人事件ですべてが完結するまでを、よくできた推理小説風にすすめてゆきます。
 文学の手品師としての、ナボコフの腕の冴えと、学術的なニンフェットの解説を堪能して最後に、本の陰でニンマリとほくそ笑む作家の表情を想像してほしいのです。
 そして、この作品「ロリータ」の本当の主人公はだれなのか。なぜ、ロリータ・コンプレックスであって、ハンバート・コンプレックスじゃあないのか、ちょっと考えてみてもらいたい、というわけなのであります。
 この作品は今から五〇年くらい前に英語で発表されたものですが最初はアメリカ国内ではポルノ扱いで発売されず、後にスタンリー・キューブリックによって映画化された時は成人指定で、主演のスー・リオンが十六才だったため自分の主演作を見られないと、当時話題になった ものでした。


★シベール

「シベールの日曜日」ヴィデオカヴァーから

 彼女のラストネームはわかりません。それどころか、彼女のファースト・ネームでさえ異教の女神名(ゲルマン神話のキュベレー)だったために、カトリックの寄宿学校の修道女たちに拒絶されてしまうのです。
 ロリータが、じつは徹頭徹尾片思いの地獄であったとしたら、こちらは、よるべない少女と、戦争で心に傷を負った男との愛の至福の物語と言えるでしょう。
 彼女を演じたパトリシア・ゴッツィの丸い大きな瞳と、殆どセリフらしいセリフのないハーディー・クリューガーのはにかんだような表情が、日曜日の散歩道でキラキラと光っていました。
 美しい、彼女たちのだけの小世界は、その美しさ故に世に容れられず、善意という名の外の世界の介入で終らされてしまうのです。
 
 さてクリスマス・イヴの惨劇とでもいいましょうか、秘密の場所でおちあった二人は互いに贈り物を交換して楽しく過ごしていたのですが、たまたま彼女の送ったペーパーナイフでふざけているところを、男を探していた警官が、誘拐殺人と見誤って男を射殺してしまいます。
 たった一人、自分の本当の名前をしる男を目の前で殺され、恐怖と悲しみで号泣するシベールは、善意の人々によって救い出されてしまいました。
 名前を拒否され、愛する人まで拒絶されたシベールの、スクリーンにこびりつくような最後の表情は忘れられません。
 その表情が、冒頭の恐怖にゆがんだヴェトナムの少女と対称されるのだとすれば(第一次のインドシナ戦争は、フランスと、インドシナ諸国の独立戦争でした。男はそのとき仏軍の戦闘機乗りでだったのです)この監督は、なんと残酷な映画を作ったのでしょうか。
 用意された煉獄の日々を彼女に課すために、あの至福の日曜日をあたえたのだとすれば。




★ベアトリーチェ・ラパチーニと名なしの娘
 怪談好きの人ならホーソーンの「ラパチーニの娘」はきっとご存じのことでしょう。もう一人はロシア象徴派の作家ソログープの「毒の園」に登場する娘です。
 
 どちらも本草学者の父親が、自分の娘を毒草の中で育て上げ、娘の身体から毒気を発散させるようにする話で人物の設定や舞台がよく似ていますが、五十年早いホーソーンよりソログープの方が古めかしいのが印象的です。
 いわば自分の娘を思い通りに育てたい父親の願望をエキセントリックに突きつめればこれらの作品に作品になるわけで、その願望が娘に恋人ができることによって破綻するのは当然のことじゃありませんか?
 彼女たちは美しい容姿と、やさしい心根をもちながら毒の充満する花園から一歩も出ることなく、ついには自ら毒を発散するからだになってしまいます。
 その娘の散策のさまを下宿の窓から見惚れた青年が、それと知らずに娘と恋仲になるところまでは両作とも殆ど同じ進行ですが、ベアトリーチェの父親は、青年も毒に染め上げて二人を結婚させようと謀り、「毒の園」の父親は、目的である、娘を使った復讐を遂げるための妨げになると二人を別れさせます。

 それにしてもベアトリーチェとは……。
 ホーソーンは永遠の恋人像である「神曲」のベアトリーチェのパロディを書こうとしたつもりではないでしょうが、あのギャグとパロディの大洪水「イブの息子たち」でさえ、男性キャラクターのヤマトタケルと並んで崩せなかったほどの強いイメージを逆手にとって、清純で美しいけれど傍らによれば毒気にあてられて、その息を吸うだけで虫は死に、手に持たれただけで花は枯れてしまうショッキングな場面を描いています。
 それを知った恋人(彼も毒に犯されつつあった)が、娘を父親の呪縛から解放するためにベアトリーチェに解毒剤を与えます。ところが既に毒の体質をもたらせてしまった彼女の体には、解毒剤は猛毒となって父親と恋人の前で、哀れ、息絶えてしまいました。  「毒の園」では父親に反対された二人は、その目の前で接吻を交わして恋人は死に、娘も自殺してしまうのです。
   どちらもやりきれなさの残る結末ですが、強い父親の力から抜けだすには、死の道を選ばざるをえなかったのでしょう。
 誰にそこまで追いつめるる権利があるかと思われるかたもあるでしょうが山岸凉子「天人唐草」で、狂気によってしか父から解放できなかった岡村響子が描かれたのは結構最近のことではないでしょうか。



★リリアン・フェラン ルウルウ そして、ザジその他
 ここには頭がよくて好奇心の強い、大人たちを振り回すほど活動的な少女たちの集まってもらいました。
 この前も、この後も重苦しい話になってしまったので、息抜きになればと思います。
 トニー・ケンリック「リリアンと悪党ども」角川文庫のリリアンは、ある過激派の資金集めを阻止させる計画のためにデッチ上げられた、百万長者一家の娘役に孤児院から借り出された女の子です。
 ボディーガード兼見張り番兼料理人と一緒に、タバコを吹かしながら競馬の予想をしていた子が、次の朝にはピンクのワンピースを着た富豪令嬢に早変わり、記者団の前ではにかんでみせる芸達者ぶりでした。後半、実際に誘拐されてからのサスペンスと、ラストシーンは本当に 絶品!!!
 それから、リリアンに関係はないけれど、富豪一家ご夫婦のなれそめのお話は文字通り、抱腹絶倒間違いなし。

リリアンは実際に事件を解決したわけではないけれど、クレイグ・ライスの「スイート・ホーム殺人事件」ハヤカワ文庫では14才を頭に三人の子供たちが共謀して、近所の殺人事件を解いて見せてくれます。
 彼らの生き生きとした会話は、家庭人としては恵まれなかった作者の、子供たちへのプレゼントとして描かれたということを知らなくとも、とても楽しませてくれます。

 こういう活発なお嬢さんを書いた作品といえば、ケストナーの「二人のロッテ」や、日本では佐々木邦「おてんば娘日記」などの名作がありますが、いわば極めつけといった作品を二点紹介します。
 
 「マドモワゼル・ルウルウ」はフランスの女流作家ジィップの作品を若き日の森茉莉さんが訳されたもので、上流階級のおしゃまさん(死語ですね)が、聞きかじりの知識と好奇心で周囲の大人たちを困らせるお話。短いコント風の、セリフの多い素敵な作品です。  筑摩書房の全集か、新潮社版の作品集で読むことができます。
 もうひとつ「地下鉄のザジ」中公文庫は離婚したお母さんにパリに連れてこられたザジが、母親の逢い引き中に預けられた、おじさんを巻き込んでパリ中を荒らし回るお話です。
 シュルレアリストでもあるレイモン・クノーのスピードのあるギャグにあふれた逸品です。  この作品はルイ・マルが殆ど忠実に映画化していてそれも映画として傑作だと思います。
 洒落た会話と奇妙なエピソードにみちた作品から、名前とは裏腹にパリに来た大目的であった地下鉄が、ストによる運行中止のためにとうとう載ることができなかった、彼女の最後の言葉を紹介しておきましょう。
 
 お母さんがこう聞きます。
 「で楽しかった?」
 「まあまあね」
 「地下鉄はみたの?」
 「うぅうん」
 「じゃ、何をしたの?」
 「年を取ったの」 〈生田耕作訳〉


★ローダ・ハウ・ペンマーク

 「悪い種子」ヴィデオカヴァーから

 「電気椅子って、うんと大きいんじゃないの」とローダは言った。「私なんか座れないくらい」「それが、お前の浅はかなところだ」リーロイは笑った…… 「ひとつ物を教えてやろうかな。おかみでは、お前のような悪い女の子用に、特別あつらえの電気椅子を用意してるんだよ。ちょうどおまえのからだにぴったりの、桃色の小さな椅子だ。おれは何度も見たがね。とっても綺麗な、桃色のペンキを塗ってあるのさ。綺麗だねえ。もっとも、その上で、ポークチャップみたいに焼き上げられる女の子にしてみりゃ綺麗どころの段じゃないが」
 〈早川書房「悪い種子」ウィリアム・マーチ 北村太郎訳〉

 引用は、主人公のローダと、彼女に異常な興味を持ち、最後に彼女の弱点を握ったために焼き殺されてしまう門番の会話です。
 このローダは、自分の欲しい物はどんなことがあっても手に入れる、そのためには殺人もやってのけ、それを知った母親に責められても、くれなかった相手が悪いと、無邪気に言ってのける少女です。
 人殺しも冷静な計算で的確に行い、反抗の証拠があがっても平然と「私は知らない」と言い抜けてしまう。
 書いていてもイライラしてくるような性格で、冒頭の会話は、彼女があるメダル欲しさに級友の男の子を殺し、その秘密をかぎつけた門番がローダをおどかしているところです。
 それにしても、ピンクのペンキで塗られた小さな電気椅子とは、妙に魅力的なイメージを持っているとおもいませんか?
 物語は、ローダの行動と秘密を知った母親の苦しみという形で進められ、最後に意外な結末ということになります。
 お話がミステリー仕立てでもあり、解説もルールに則って詳しい内容は書かれていませんが、もう半世紀近く絶版ですし、これからも出版される見込みはないと思うので、少し詳しく話してみましょう。
 
 先ず題名ですが、稀代の殺人者の子が養女となって育ち結婚して、できた子供がローダであった。
 つまり、教養もあり性格も、読んでいて歯がゆくなるくらい優しいローダの母クリスティンが、暗い恐ろしい性格の遺伝子を祖母から孫へと受け継がせた「悪い種子」だったのです。
 物語の終り近く、種々の資料で自分の過去を探っていたクリスティンが、家中を皆殺しにした母親の、自分も殺そうとして呼ぶ猫なで声を思い出すシーンの絶望的な悲しみは、鳥肌が立つようでした。
娘ローダの性格と母の性格が徐々にオーバーラップしていき、最後に最後に母の電気椅子での処刑写真を見つけ、さらに、娘の門番殺しを予感しながらも止めなかったことで、彼女は、娘を殺し、自分も命を絶とうと決意します。
 この作品、当時非常に評判になって映画化されたのですが、母親が娘を海に落として殺すように結末が変えられてしまいました。
 ハリウッドでは、やはり原作通りの結末ではあまりにショッキングだったのでしょうか。

 自分のみの危険を本能的に感ずる娘を殺すために、クリスティンは睡眠薬を風邪薬といつわって服ませ、昏睡状態になったのを確認して、自分はピストルで自分の頭を撃って死んでしまいます。
 ところが、その頃知人が電話に出ないのをいぶかって家を調べたため、母親を発見し、薬を飲んだだけのローダは命をとりとめました。
 クリスティンが心中の前に娘と母に関するすべての証拠を燃やしてしまったため、なぜ彼女が死のうとしたのか不明のままに、出張中の夫が帰り、葬儀が行われました。
 悲嘆にくれる夫に娘を救った、知人の女性がこう語りかけて物語は終わるのです。
 
 「気をしっかりお持ちなさいまし、ペンマークさん。そんなに悲しむこと、ないですよ。私たちはいつだって、神様の思し召しはわからぬままに受け入れなければならないんですから。あなたは何もかも奪われたようにお考えですけど、そんなことはありませんわ。少なくともローダは助かりました。ありがたいことに、あなたには、まだローダってものがあるじゃありませんか。」
〈同書 北村太郎訳〉

 オチの決まったあとで、何かいうのはいやなものですが、どうしてもいいたいことがあります。
 確かにローダの性格はショッキングだけど、作者が書こうとしたのは自分に原因のない過去と現在に責められて、その罪を自らの死で購った母親クリスティンのことだったのかもしれません。
 絶対悪の前では、いわゆる人間の善などというものは本当に歯がゆいものですからね。
 ……とすると、彼女は一体誰だったのか、うっすらと見えてきませんか?
 
 
★ミムジイはボロゴーブ《解読案内》ハヤカワSFシリーズ
 フレデリック・ブラウンの「悪魔とギーゼンスタック」、レイ・ブラッドベリの「草原」そして、このルイス・パジェットの作品……。
 おとなは(ぼくも含めて)いつでも子供たちを自由に動かせると思っているくせに、心の底では、どうしても思い出せない子供の心にいつも恐怖心を抱いているような気がする。
 ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」に登場するナンセンス詩を核に、タイムマシンと異星文化の風変わりな侵入をからませたこの作品を読むと、いつもそんな気にさせられてしまうので す。
 それも、幼ければ幼いほど異なった文化の吸収は早いようです。
 もう一人の、タイムカプセルの洗礼を受けた少女は、ちょっと成長してしまったようで、語り部のおじさんにその鍵になる詩を記録させただけでしたが、異星文化の象徴、タイムマシンを完成させたのは、二歳の妹に手引きされながらガラクタを組み合わせた7歳の男の子でした。
 いままで何人か登場してきた少女たちは、それぞれに特異なキャラクターを持っていたのに、このお話に登場するのろまのエマは、太い腕にテディ・ベアを抱いた階段も満足に下りることもできない、赤ちゃんといってもいい女の子だったのです。
 おとなたちの必死の抵抗にも拘わらず、二人はその目的−偶然あたえられた文化−へと去ってしまい、あとに残された親たちの虚脱感は、結局なすすべもなく、子供たちの意思のままに動かされれしまった、あれこれへの無力感だったのでしょう。
 
 いままで紹介した話の中で一番怖いのはこの話だったかもしれません。
 ちなみに7歳のスコッティ少年の組み立てるタイムマシンは、「三っ目がとおる」の写楽保介のつくる珍妙な機械にそっくりでした。



★もうひとりのアリス
 “子供というものは、年長者に就いてその人達の子供であった時の話を聞きたがるものである”と始まるのは、名随筆で名だかい「エリア随筆」〈戸川秋骨譯 岩波文庫〉のある文の冒頭であります。
 チャールズ・ラムはそこで、二人の幼な児に、ずっと昔の話をしてやるのです。
 それは怖い悲しい昔話です。
 
 聞きながら(彼の母親に似た)アリスは、感心してその両手を広げました。
 また、もうひとりのジョンは、その話の怖さにひるまぬ強そうな顔つきをして見せるのです。
 さらに、この屋敷での小さい頃の話を続けているうちに、死んでしまった伯父さんのことになりました。
 足の悪いその伯父さんの死の話は子供たちを悲しませ、泣き出させてしまったのです。
 死んでしまったその子たちの母親についての話もせびられましたので、彼らに、七年間に及ぶそのやりとりを説明してやりました。
 そして、今、話しかけている少女の方を見ると、昔のアリスが彼女の瞳に現れて、ついには、 彼の前にいるのがどちらのアリスか判らなくなって、じっと見ている彼の前から二人の子供は消えていってしまうのでした。
 こんな言葉を残しながら……。
 
 「私達はアリスの子ではありません、貴下の子でもありません、……私共は何でもないものです。何でもないといういうにも足りないのです、夢なのです。私共はこうもあったろうかと思われるものにすぎなくて、生命をもち、名がつけられるようになるには、何百萬年も、退屈な地獄の河の岸で待っていなければならないのです。」
〈同書 戸川秋骨譯〉
 
 生涯を娶ることなく終え、狂気の姉の看病と、自身もその発病におびえつつ過ごしたチャールズ・ラムの、実ることのなかった初恋への思慕の言葉、もしかすると呪いの言葉であったかもしれません。
 夢から醒めた彼のかたわらには、ただひとり、生涯の忠実な友でもあった姉のメアリがいるだけだったのです。

 例えばオルレアンの少女
 例えばサロメ
 例えばエスメラルダ

 「アフロディット」1926から

さらに、さらに、
 エデ、ウェンディ、アフロディットにヴィルジニイ
 映画なら「白い家の少女」や「ペーパー・ムーン」
 貧乏画家の前にあらわれるたびに年を重ねる、あのジェニーまで
 まだまだ、あらわれるあまたの少女たちをコレクトして紹介しようとした
 “妖精苑ル・ジャルダン・ド・ラ・フェー”はここで終わります。
いかがだったでしょうか。

 エルンスト・フックス

 最後に、コクトーが発見し短い生涯ながらも珠玉の作品を残したレイモン・ラディゲの掌編をそっくり紹介します。

 「レダ」フランスの古版画

花賣り娘 レイモン・ラディゲ 作 堀口大學 譯

 どういう不思議な事情のもとに、動物園の白鳥が盗み出されたか、誰も忘れはしなかった。流行歌の作家等は、この頃家禽が馬鹿値なので、その結果、こんな窃盗が行はれたりするのだとほのめかした。また社會黨の下院議員の一人は、これを利用して、政府に質問する材料にした。しかし世間一般は、これほど風變りな窃盗に、何か特殊な動機のない筈はないと信じて承知しなかった。

 動物園の番人達は、花賣り娘のアリイヌをよく知ってゐた。氣前のいいお客さま達が、彼女の菫とミモザをみんな買ひあげてくれた日には、子供にとっての樂園のやうな、あの目もあやな色どりの賣店へと馳けつける彼女だった。

 だが、アリイヌは前掛に一ぱい入れた小さなパンのお菓子を、輕々しく動物達に配(わ)けてやりはしなかった。自分のお氣に入りのその白鳥と、彼女はよろこんでままごとをして遊ぶだらうと思はれるのだった。それなのに、そのエゴイストの白鳥は、彼女を招待してはくれなかった。花賣り娘の前掛けが空になるのを見ると、この風變りな思はれ人は初心(うぶ)な娘に左様ならをしてさっさと行ってしまふのだった。
 あの様に氣品の高い動物の、このやうに無作法なお行儀を見ては、美しい貴婦人達が、貴顕の士を圍ってお置きになった話の書いてある騎士道小説を讀んだことのない人なら、誰しも吃驚(びっくり)する筈だ。

 アリイヌは、甚だ関心出来ない或る宿屋の七階に住んでゐた。模範的な彼女の身持ちのよさが、同宿の女達の驚きの種だった。
 ──あの娘(こ)の年齢(とし)の十四の時には、あたし達はもう花なんか賣りはしなかったよ。」と彼女達はささやき合った。
 アリイヌの室の壁には、白鳥に化けたジュピタアに見惚(みと)れてゐるレダ姫の三色版が懸けてあった。古い寓話のこころは知らないので、ひとすぢにレダ姫を戀敵と思ひこんで、彼女は憤るのだった。
 ──何て恩知らずな方だろう!」
 或る嵐の晩に、彼女はその三色版を引き裂いてしまった。翌日、彼女は、自分の可愛がってゐる白鳥の瞳の中に非難の色を讀むやうな氣がした。
 ──何故、やきもちなんかやくのですか? 僕とレダ姫との戀物語なんて、もう昔の話ではないですか。」
 釦(ボタン)穴に花をさす流行がまたかへって來たので、彼女は、とあるさっぱりした街に、氣持のいいアパアトを借りて住んだ。
 アリイヌは、今では二人で暮らすだけのお金を儲けた。彼女は動物園の園長に手紙を書いて、あの白鳥を買取り度(た)いと申込んだ。それなのに、郵便配達が間抜けなので、彼女はついに返事を受取らなかった。

 彼女はこれまで、いつだって正直にして來た。だから、番人達が柵を閉める時刻をまって、思ひどほり自分の愛する白鳥を盗み出した時、彼女の心は激しく高鳴った。その白鳥は悧巧者でアリイヌが彼を殺さうとしてゐるのではないと知ってゐて、歌はずにゐてくれた……。
 二人は無事にアパアトにたどりついた。白鳥は浴槽の中に棲みついた。その後、花賣りの小娘は、自分位の年ごろの子供達がお風呂場で白鳥と遊ぶのを、羨む必要がなくなった。
 ただし、白鳥は、セルロイド製ではなかった。

△エッセイ・リスト