ヴァランティーヌ・ユゴー シュルリアリズムの隠れた女神


最近、レオノーラ・キャリントンやレメディオス・ヴァロなどシュルリアリズムの女性画家が、見直されています。
いわゆる男性優位の世界観で歴史的にも無視に近い扱いを受け続けてきた人達に脚光があたってきたと言えるでしょうか。
実際、シュルリアリストたちはその霊感の多くを女性に負っていながら、余り創作家としての力量を、重要視していなかったように思います。
画家ダリと詩人エリュアールにおけるガラの存在とかベルメールとウニカ・ツゥルン、マン・レイとリー・ミラーのように恋愛の対象としてはみても、仲間と見る気はなかったのではないでしょうか。実際、美しい人が多かったし。
男たちのイデオロギー的な仲間意識の中で離合集散に明けくれる中で、彼女たちは本当に純粋な意味で意識下のイメージの具体化という制作活動を続けていました。
まぁ、半可通の理屈はこれくらいにして、あまり話題にのぼることのないもう一人のミューズを御紹介したましょう。

ヴァランティーヌ・グロス、後にヴィクトル・ユゴーの曾孫であるジャン・ユゴーに見染められ、コクトーとエリック・サティの介添えで結婚してユゴー姓を名乗ります。
ドーヴァー海峡に面した港町、ブーローニュでピアノ教師と学校の女教の間に生まれた彼女はパリの女子美術学校へ進みました。


1913 ペール・ラシェーズ墓地のオスカー・ワイルドの墓碑

こういう画題を選ぶこと自体がそのセンスを感じさせます。
現在のワイルドの墓はこちら
 

1910 ヴァランティーヌの肖像 アマン・ジャン

その画学生は世紀末の画家アマン・ジャンによってその肖像を描かれたほどの美貌の持ち主でした。
そのうえ才気と才能を持った彼女は、当時パリで大人気だったディアギレフのロシア・バレエ団の公演を頻繁に訪れ、初期のニジンスキーやカルサヴィーナの貴重な記録としてのデッサンを残しました。


薔薇の精 1911

アール・デコの先駆とも言える彼女の繊細で優雅な版画やデッサンはパリの人気を博すことになりました。


1912 カルサヴィーナのペトリューシュカ


1915 バルビエ風に

さらにファッション画や雑誌のイラストレーターとしてその仕事を順調にこなしていく彼女は、バレエ団の絡みでジャン・コクトーやピカソなどの美術界の中枢へと進んで、当時の最先端であったシュルリアリストと親交を結んでいきました。
そのころの何点かを紹介します。


1932 Une Femme Admirable Apparaitra sur un Zeble


1929 Reve du 21 decembre


10/11/1935 Regard a la rose avec cristaux et etoiles

彼女の作品にはいわゆる油による大作はありませんが(それが彼女が派手に取り上げられない理由の一つでしょうか)自らの夢を具象化する独特のデッサンの鋭さと、美しい深みのある版画の線の鋭さはたとえば、線描の巨匠ベルメールに較べても決してマイナー・アーティストとは呼べないでしょう。


Illustration pour Medieuses

さらに、ブルトン、エリュアール等詩人との親交が深かった彼女は彼らを始め多数の魅力的な肖像を残しています。


日付なし Jean Cocteau

若いコクトーのポートレイトとしては最良のものではないでしょうか。
さらに、ヴァランティーヌはランボーが好きで彼の幻想的な肖像を残しているけれど、そこから一点紹介します。
幼いがきりりとした顔立ちはダリの“幻想的なロートレアモン像”にも較べられるでしょう。


1936 Rimbaud


1937 Leautreamont Dali



★参考文献

☆『ディアギレフのバレエ・リュス展目録 1998』
「ディアギレフのバレエ・リュスの余白に」山口昌男 322-4p


一体、ディアギレフ旋風が直撃したパリではコクトー、サティ、ミヨー、オーリック、プーランクに至るまでの音楽家、および既に挙げた画家たちの反応は絶妙なものであった。それに対して記録する同時代の目撃者は、当事者である芸術家を除いては余り雄弁なものは見当たらない。(略)ヴィクトル・ユゴーの曾孫で画家にしてコクトー、プーランク、ピカソとも親しかったジャン・ユゴーの妻であったヴァランティーヌ・ユゴー(旧姓グロス)について、『ピカソ・テアトル』の中でダグラス・クーパーは次の如くに触れている。『サティやコクトーの友人で、ピカソの熱狂的な崇拝者であったヴァランティーヌ・ユゴーは初期のディアギレフ・バレーについての並々ならぬ知識を自由に使うことを許して下さった。」ディアギレフたちは、確かにヴァランティーヌ・グロスに常時稽古場に坐ってデッサンをすることを許していた。だからグロスには数多くの素描が残っている筈である。323p

1915年10月にコクトーはヴァランティーヌ・グロスの家でエリック・サティに初めて会っている。翌年コクトーは『パラード』と呼ばれるサーカスを舞台として使った興行を執り行うことを手紙で提案した。ミシア・セールは舞台の構想が陽の目を見たのは自分のところでなくて、若くて綺麗なヴァランティーヌ・グロスの家においてであったことに憤慨していた。このようにしてヴァランティーヌ・グロスは歴史的舞台に登場している。323p


☆『ミシア ベル・エポックのミューズと呼ばれた女』 
アーサー・ゴールド ロバート・フィッツデイル 鈴木主税訳 草思社1985

ヴァランティーヌはヴィクトル・ユゴーの曾孫に当たる画家のジャン・ユゴーと結婚し、コクトーとサティが新郎の介添え役をつとめた。ジャンとヴァランティーヌが出会ったのは、ツィパの家だった。ミシアの父の肖像画のある客間で、ジャンはヴァランティーヌを見染めたのだった。ジャンはミシアの親しい友人になったが、ヴァランティーヌは生涯ミシアを嫌っていた。ミシアの死後、回想録が出版されたときも、ヴァランティーヌは腹を立てた。彼女は怒りにまかせて、本のあちこちに意地悪な訂正を書き込んでいる。235p

つぶらな瞳のヴァランティーヌ・グロスは人形のような化粧をして、髪を真ん中でぴったり分けていた。251p


☆『ディアギレフ ロシア・バレエ団とその時代 (上・下)』 
リチャード・バックル 鈴木晶訳 リブロポート1984

☆『評伝ジャン・コクトー』
ジャン=ジャック・キム エリザベス・スプリッジ アンリ・C・ベアール 秋山和夫訳
筑摩書房 1995


ちなみに素天堂拾遺で関連記事を書いていますので、こちらもご参照下さい。




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