ダートムア再訪

 黒死館とローリー・キングの不思議な関係は以下の通りです。



 アイリーネ・アドラーとの秘めたる恋の後、老境に入るまで独り身だったシャーロック・ホームズが、16歳の少女と知り合いあまつさえ結婚してしまうというお話なのですが、かといって、一般的な聖典のパスティーシュではなく主人公はその少女、はきはきした魅力的なメアリ・ラッセルで、老シャーロック・ホームズは脇に回って要所を締める役割のようです。
 その第4作目が表題【シャーロック・ホームズの愛弟子 バスカヴィルの謎 原題 the  Moor】。
 作品全体の流れを見たとき、ここでの主人公はもしかすると、そのメアリ嬢でさえなくイギリス南部の荒蕪地ダートムア地方(現在は国立公園)。
 作者はもしかするとダートムアとそこで登場する老牧師を描きたくてこの作品を構想したのではないだろうかとさえ思えてしまいます。
 事件とその謎までがここでは地方の風光に奉仕しているように思えるのですから。
 もちろん、最新刊でもあり内容的に事件については一切触れることはありませんが、それでもその魅力については語ることができるだろうと思うので、今回は一寸異例な新刊の紹介になりました。
 

ダートムア風景


 ダートムアといえば「四つの署名」と並ぶホームズ物の長編「バスカーヴィル家の犬」の舞台であり、「黒死館殺人事件」も多分その舞台の風景を借りているに違いないと思われるイギリス南部の重要な地域です。引用する冒頭の光景を較べてみましょう。

 私鉄T線も終点になると、其処はもう神奈川県になっている。そして黒死館を展望する丘陵までの間は、樫の防風林や竹林が続いていて、とにかく其処までは、他奇たきのない北相模さがみの風物であるけれども、一旦丘の上に来てしまうと、俯瞰ふかんした風景が全然風趣を異にしてしまうのだ。恰度それは、マクベスの所領クォーダーのあった──北部蘇古蘭スコットランドそっくりだと云えよう。そこには木も草もなく、そこまで来るうちには、海の潮風にも水分が尽きてしまって、湿り気のない土の表面が灰色に風化していて、それが岩塩のように見え、凸凹でこぼこした緩斜かんしゃの底に真黒な湖水があろうと云う──それにさも似た荒涼たる風物が、摺鉢すりばちの底にある墻壁しょうへきまで続いている。
 【黒死館殺人事件 創元】209p

 
 そこは、ホームズがいっていたように、巨大な鉢だった──わたしに見える範囲ではそう思われた、という意味ではあるが。曲がりくねる乾いた石の壁に切り刻まれ、死にかけた植物と死んだ岩が散らばる、浅くてごつごつした緑色の鉢。
 【シャーロック・ホームズの愛弟子 バスカヴィルの謎 集英社】77p


 しばらく走るうちに、今まで黒茶色だった窓外の土のいろが、しだいに赤みをおびてきて、レンガづくりの家は田舎風の花崗岩の家に変り、きれいに生垣をめぐらした牧場の中で赤い牛が見送っていたり、青々とした草や生いしげった樹木は、多少湿気は多いにしても、土地が肥沃 で気候のいいことを物語っていた。うつり変る窓外の景色を熱心にながめていたヘンリー卿は、なつかしいふるさとデヴォンシャーの風景に接すると、狂喜の声をあげるのだった。
 【バスカーヴィル家の犬 新潮】2848p 01-11 
 
 
 窓外には四角に区切られた青々とした畑地や、低く生いしげる木々のはるかかなたに、小山のいただきが鋸の歯のようにぎざぎざと憂鬱にあわくかすんで夢の中の不思議な景色のように、かすかにうすれていた。吸いよせられるようにそれを見いって、いつまでも眸をすえている ヘンリー卿を見て、私は彼が初めて見る父祖伝来の山河に感慨ふかく、あやしくも心をうたれているのだと察した。
 【バスカーヴィル家の犬 新潮】2850p 06-14





 主人公のメアリ・ラッセルは結婚相手であるホームズからの突然の呼び出しを受けて20年前の怪事件の舞台、悪天候のダートムア地方へ向かいますが、そこで、彼女は夫ホームズとともに出向いた田舎の屋敷で、狷介な老牧師の冷たい挨拶で出迎えられます。
 その牧師の名はセイビン・ベアリング・グールド。
 ダートムア地方を愛し、沢山の著作とともに知られる人なのですが、現在の日本ではまず知る人はないかも知れないかも知れません。 * 関連サイト に彼の住まいと教会の画像があります。

 集英社本の解説によれば所謂英国エキセントリックの系譜につながる人のようで、著述こそ多いものの、主人公メアリの真面目なオクスフォードでの学生活動から見ると神学的にもいい加減な著述が大半を占めるらしいのです。

 じつは素天堂がベアリング・グールドというイギリスのお坊さんの名前を知ったのは角川文庫版の薄い「民俗學の話」という本でした。
 もちろん客観的な価値など知らずに内容のおもしろさに惹かれてのことだったのですが。
 地元らしい地方の多彩なエピソードと汎ヨーロッパ的な民俗学的視野の広さがあいまった、当時としては数少ない、具体的な記述の多い楽しく読める民俗学書でした。
 文庫版の著者紹介を引用しますと、

 ベヤリング・グールドBaring-Gould 1834-1924
 英国エグゼタ州に生まる。ケムブリッヂ大学卒業後、1881年からデヴォン州トレンチャードで牧師をした。
 博学そのものといわれ、その理解の広さと、絶えず集めていた豊富な資料によって、著作は本職から、考古学・民俗学・小説にまでわたっている。
〔主要著書〕「アイスランド、その風景と叙事詩」「人狼伝説の話」「中世時代の珍らしい神話」「聖書の生涯」「ヨーク州奇譚」「どいつの過去及び現在」「メハラ鹹帯地方の話」「ジョン・へリング」「紅蜘蛛」「無法者グレチス」「ブルーム・スクヮイヤ」「ブレイディス」「ドミシア」「金の壺」「ダートガ原の話」「静かな村で」「無垢聖者と殉教者」「ブリタニの話」等。

 その後、黒死館の辞典を作るなどと言う酔狂な作業を始めてから、「ガウルド」と虫太郎が表記している著者がベアリング・グールドではないかと思ったのは、オールド・ニックという単語の共通性からでしたし、さらにその後入手した親本はもっと重要な意味を持っていたのです。
 文庫版ではカットされている索引の存在です。
 見ていただければ分かるとおり結構共通している項目が多いことに気づかれると思います。
 また、「英語 迷信・俗信事典」I.オウピー/M.テイタム編 大修館書店刊 にも参考文献としてリストに載っていました。

 例えば、「バスカヴィルの謎」に登場する犬をつれた馬車も、同書に紹介されています。
 辞典の"アンクウ"や"アナトール・ル・ブラ"の項目でも引用したことがありますが、文庫版54pに死の馬車に関する記述があります。


 アンクウの車はデヴォンシャウェイルズで時々耳にする死の馬車に似てをります。この馬車は、黒塗で同じ黒色の馬に牽かれて行きます。馭者は首無しの男。そして、その前を黒犬が驅けてをります。馬車には一人の女が乗っているのですが、オケハンプトンの附近では、その女 をホワアド夫人(バスカヴィルの謎ではハワード)だといってをりますけれども馬車が、死にかかってゐる人の魂を拾って行くところから見ても、その女は疑ひなく死の神を人格化して考へたものであることが分かります。「民俗學の話」


 メアリ・ラッセルにとって最初の出会いこそ不満足でしたが、彼女自身がダートムアの魅力を発見し、さらに老牧師の狷介な見てくれの裏に潜む、人間的な魅力にも触れていくにつれてその人物が自分の老いたつれ合いとの共通点までを発見することになります。


 そんなわけで、朝の五時に音の反響する旧い屋敷で、わたしたちは神学について語り合った。ベアリング=グールドはおもしろい話し相手だった──子供のように好奇心旺盛だが、自分が知っていると思う事柄に関しては頑固に自説を曲げようとしない。本質と関係ない細部には いらいらするが、自分が大事だと考えればこだわる。実に横柄なのに、生来の大らかな優しさがある。
 実際、わたしが知っているもうひとりの熱意あふれるアマチュアと、不思議なほどそっくりだった。今日では稀少な人種だ。
 「バスカヴィルの謎」263p


 この魅力的な主人公メアリ・ラッセルはこうやって死期の近い頑固な老牧師に彼女の夫の風貌を重ねていきました。
 古いけれど魅力的な民俗学の小冊子で知り合った頑固な牧師と、「シャーロック・ホームズの弟子 バスカヴィルの謎」という楽しい本のおかげで素天堂はまったく新しい出会いを再び味わうことが出来たのでした。


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